境界とは意識される自己と他の分別であり、結界とは、意識如何に関わらず他の世界との境界である。
意識されればそれは境界となり、意識のされない境界は結界と言うことか……?
しかし意識のない世界とはすなわち虚無であり、意識するものもなく、結界が発生する理由も、作り出す理由もない。
意識されることもないのだから、意識ある人間は『虚無』の存在する世界、すなわち結界の中には行けないわけで、けれど結界というのはそもそも内と外を遮断する壁であるのだから、はっきりと分別する境界にもなり得るわけで、けれど一般人はそれを感じることのできない境界である。
しかし、意識されなければ分別もされなければ境界を引くこともできないわけで、結界が生じることもない。
そもそも感じることのできないものなのだから、結界が存在する訳がない。意識されない時点でそれは境界ではなくなり、意識されない境界は、境界たる結界ではなくなる。境界たる狂態を保たない結界は結界たり得ない。なぜならそこに存在しない。存在しないものは境界の壁にはならないし、転じて結界にもならない。
けれど境界も結界も存在する。
ということは、これは『真と儀が同時に存在する命題』であると言うことで、同時に一つのパラドックスだ。
……いきなり何の話だと思われるでしょう。
今日、買ってそのままにしていた『空の境界』を全部読み終えました。占めて9時間くらい、ですかね。昨日の24時前から読み始めて、気がついたら朝になっていたといういつものパターン。10時過ぎに一度14時まで寝て、そこからイオンですよ。人が多くて吐きそうでした……; でも大阪はあれよりすごいと言う罠(あ
軽く読み出したら、開始十五分で甘く見ていたことに気がつきました。長さではなく、ね。これぐらいの長さならどうってことはないので、長さ自体は特に問題視はしていません。
さて、『空の境界』何が失敗だったかって、買ったときにラノベだと勘違いしていたこと。いつもならパラパラとめくるのですが、今回は帯と表紙に惹かれてと言うのと、前々から気になっていた作品なので即買い。
この小説、普段から本読み馴れてない人にはちと難しいかもしれません。
わたしは常に脳内フル稼働で読んでました。難しい(知らない)言葉が多く、知っていても自分の中で定義の怪しい言葉なんかも踏んだんで、独特の文体に、随所に見られる哲学的問題定義や命題。
なにが、同人小説が出発点だ……!
こんなの同人のクオリティーじゃないよ;
もうこれは才能と、作者の深い知識と思慮によるものだと思われます。わたしみたいな、なまじっか同人小説をかじった人間が模倣とするものじゃないです。したら自分の価値観とか必死で築いてきた自分らしさ(まぁ、価値観と自分らしさは≒で結べますが)が崩壊します。
あ、わたしは真似と模倣は別物だと思っています。あくまで一個人としてですから、気にしないでください。
真似は悪意に近い崇拝から来るものであり、模倣は対象への尊敬と、自分の向上のための行動だと思っています。芥川や夏目漱石の文体の模倣から入った作家もいるくらいですし。問題は、模倣は模倣であり、擬似の域を出ない、ともすれば他人からは“真似”と受け取られかねない危うさを含んでいること。あくまで模倣は技術習得のためのレッスンに過ぎず、そこから“自分”をくみ上げられない人間は、どの世界においてもその程度でしかないと思います。
俳優は、“真似”ではないですよね。すでに作られた人物を自分にしてしまうのだから、台本の中のキャラクターを模倣し、キャラクターを生かすために“自分”の解釈を交える。その解釈を間違えたら偉いことですけど。
まぁ、そんなことは置いておいて。
『空の境界』ではそんな哲学めいた台詞や問題が数多く存在しています。
わたしはそれを自己処理すると同時に新たに定義された問題と向き合って、多少混乱しながら読み進めました。何回も読まないと、作者の意図する答えには行き着かないかもしれません。けれど、妙にストンと胸に落ちる答えもあって、こんなに無秩序で規律正しい、ほころびだらけで完全な答えを出さないものが物語として成り立っていることに、少しだけ感動しました。わたしはどうあがいたって、この領域には手が届かないから。
この小説の最初から最後まで出てくる『殺人衝動』。ヒロイン『両儀式』は、主人公『黒桐幹也』を最初のほころびとして事件に関わっていくことになります。
式は解離性同一性障害、いわゆる二重人格者で、内に『式』と呼ばれる陰性(女性)と『織』と呼ばれる陽性(男性)が存在して、分かりやすく言えば『善と悪』。
殺人衝動を持つのは織の方で、式はそれを抑えていた、とかかれています。けれど彼女が事故に遭い、2年間の昏睡から目覚めたとき、『織』も消えました。
『両儀式』という人間は目覚めてから殺人を欲した。
……ここで矛盾が一つ。
識が消えたのなら、殺人衝動も消えるはず。けれどそれは消えることなく残った。同じように蒼崎燈子という魔術師も死んでいるのに生きている、生きているならば死んでいるという、パラドックスの状態に置かれます。
わたしの考える『両儀式』についての矛盾は最終的に、ストンと収まるところに収まりました。燈子については、わたしは読み終わってネタ晴らしがあった後も首をひねっています。他のことは……まぁ、ネタバレになるのでこれ以上は伏せます。
そしてここで、一番始めの境界と結界の話に戻ります。わたしの言うことはいつも以上に支離滅裂です。でも、考えれば考えるほど訳が分からなくなる。
『両儀式』という人間も、ある意味で、境界であり、結界であったのだと思います。けれど、ここでパラドックス。
境界と結界を説明する言葉が『空(から)』であり、タイトルである『空(から)の境界』につながり、ひいては結界であり境界である式自身を説明する隠語的役割を果たしていたのだと思います。あくまで推測ですが(笑)
さて、レビューはここまでにして、今日は靴と、シャンプーボトルを買って参りました。あと探し続けていたRAKA。
靴はこれ。

ふふふ、これで少しは背が伸びるw(待て
意識されればそれは境界となり、意識のされない境界は結界と言うことか……?
しかし意識のない世界とはすなわち虚無であり、意識するものもなく、結界が発生する理由も、作り出す理由もない。
意識されることもないのだから、意識ある人間は『虚無』の存在する世界、すなわち結界の中には行けないわけで、けれど結界というのはそもそも内と外を遮断する壁であるのだから、はっきりと分別する境界にもなり得るわけで、けれど一般人はそれを感じることのできない境界である。
しかし、意識されなければ分別もされなければ境界を引くこともできないわけで、結界が生じることもない。
そもそも感じることのできないものなのだから、結界が存在する訳がない。意識されない時点でそれは境界ではなくなり、意識されない境界は、境界たる結界ではなくなる。境界たる狂態を保たない結界は結界たり得ない。なぜならそこに存在しない。存在しないものは境界の壁にはならないし、転じて結界にもならない。
けれど境界も結界も存在する。
ということは、これは『真と儀が同時に存在する命題』であると言うことで、同時に一つのパラドックスだ。
……いきなり何の話だと思われるでしょう。
今日、買ってそのままにしていた『空の境界』を全部読み終えました。占めて9時間くらい、ですかね。昨日の24時前から読み始めて、気がついたら朝になっていたといういつものパターン。10時過ぎに一度14時まで寝て、そこからイオンですよ。人が多くて吐きそうでした……; でも大阪はあれよりすごいと言う罠(あ
軽く読み出したら、開始十五分で甘く見ていたことに気がつきました。長さではなく、ね。これぐらいの長さならどうってことはないので、長さ自体は特に問題視はしていません。
さて、『空の境界』何が失敗だったかって、買ったときにラノベだと勘違いしていたこと。いつもならパラパラとめくるのですが、今回は帯と表紙に惹かれてと言うのと、前々から気になっていた作品なので即買い。
この小説、普段から本読み馴れてない人にはちと難しいかもしれません。
わたしは常に脳内フル稼働で読んでました。難しい(知らない)言葉が多く、知っていても自分の中で定義の怪しい言葉なんかも踏んだんで、独特の文体に、随所に見られる哲学的問題定義や命題。
なにが、同人小説が出発点だ……!
こんなの同人のクオリティーじゃないよ;
もうこれは才能と、作者の深い知識と思慮によるものだと思われます。わたしみたいな、なまじっか同人小説をかじった人間が模倣とするものじゃないです。したら自分の価値観とか必死で築いてきた自分らしさ(まぁ、価値観と自分らしさは≒で結べますが)が崩壊します。
あ、わたしは真似と模倣は別物だと思っています。あくまで一個人としてですから、気にしないでください。
真似は悪意に近い崇拝から来るものであり、模倣は対象への尊敬と、自分の向上のための行動だと思っています。芥川や夏目漱石の文体の模倣から入った作家もいるくらいですし。問題は、模倣は模倣であり、擬似の域を出ない、ともすれば他人からは“真似”と受け取られかねない危うさを含んでいること。あくまで模倣は技術習得のためのレッスンに過ぎず、そこから“自分”をくみ上げられない人間は、どの世界においてもその程度でしかないと思います。
俳優は、“真似”ではないですよね。すでに作られた人物を自分にしてしまうのだから、台本の中のキャラクターを模倣し、キャラクターを生かすために“自分”の解釈を交える。その解釈を間違えたら偉いことですけど。
まぁ、そんなことは置いておいて。
『空の境界』ではそんな哲学めいた台詞や問題が数多く存在しています。
わたしはそれを自己処理すると同時に新たに定義された問題と向き合って、多少混乱しながら読み進めました。何回も読まないと、作者の意図する答えには行き着かないかもしれません。けれど、妙にストンと胸に落ちる答えもあって、こんなに無秩序で規律正しい、ほころびだらけで完全な答えを出さないものが物語として成り立っていることに、少しだけ感動しました。わたしはどうあがいたって、この領域には手が届かないから。
この小説の最初から最後まで出てくる『殺人衝動』。ヒロイン『両儀式』は、主人公『黒桐幹也』を最初のほころびとして事件に関わっていくことになります。
式は解離性同一性障害、いわゆる二重人格者で、内に『式』と呼ばれる陰性(女性)と『織』と呼ばれる陽性(男性)が存在して、分かりやすく言えば『善と悪』。
殺人衝動を持つのは織の方で、式はそれを抑えていた、とかかれています。けれど彼女が事故に遭い、2年間の昏睡から目覚めたとき、『織』も消えました。
『両儀式』という人間は目覚めてから殺人を欲した。
……ここで矛盾が一つ。
識が消えたのなら、殺人衝動も消えるはず。けれどそれは消えることなく残った。同じように蒼崎燈子という魔術師も死んでいるのに生きている、生きているならば死んでいるという、パラドックスの状態に置かれます。
わたしの考える『両儀式』についての矛盾は最終的に、ストンと収まるところに収まりました。燈子については、わたしは読み終わってネタ晴らしがあった後も首をひねっています。他のことは……まぁ、ネタバレになるのでこれ以上は伏せます。
そしてここで、一番始めの境界と結界の話に戻ります。わたしの言うことはいつも以上に支離滅裂です。でも、考えれば考えるほど訳が分からなくなる。
『両儀式』という人間も、ある意味で、境界であり、結界であったのだと思います。けれど、ここでパラドックス。
境界と結界を説明する言葉が『空(から)』であり、タイトルである『空(から)の境界』につながり、ひいては結界であり境界である式自身を説明する隠語的役割を果たしていたのだと思います。あくまで推測ですが(笑)
さて、レビューはここまでにして、今日は靴と、シャンプーボトルを買って参りました。あと探し続けていたRAKA。
靴はこれ。

ふふふ、これで少しは背が伸びるw(待て


















